ベトナムの歴史・ベトナム戦争〜南北統一・中国が西沙諸島を占領
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海外
ベトナムの歴史(2)
アメリカが本格参戦したベトナム戦争は、長期化・泥沼化します。
大量の爆弾と枯れ葉剤がベトナムや周辺国に大きな傷跡を残し、ついにアメリカが撤退。ベトナム戦争が終結しますが、、、
(上の写真:特に用があるわけではなく、夕涼みのためにバイクでホーチミン市内をウロウロするのが”常識”です)
前記事:ベトナムの歴史と中国の因縁 南シナ海での衝突はエスカレートするか?
ベトナム戦争の長期化と泥沼化
1961年に就任したケネディ大統領は、周辺地域へドミノ倒しのように共産主義が広まる(ドミノ理論)のを阻止するという目的で、南ベトナム軍への支援を増やします。
その後、韓国をはじめオーストラリア,フィリピン,タイ,ニュージーランドの参戦、北ベトナムへの大型爆撃機B52などでの爆撃(北爆)の開始や大量増派で戦争は本格化しますが、決着はつかず長期化,泥沼化します。
あまり知られてはいませんが、アメリカは、北ベトナムから南ベトナムへの補給ルート(ホーチミンルート)が、隣国のラオスやカンボジアにもあることから、両国へも激しい爆撃や侵攻を行いました。
太平洋戦争で日本本土も、アメリカから全国の主要都市が焼け野原になるような爆撃を受けましたが、その時の爆弾投下量の合計は16万トンです。
それに対し、アメリカがベトナムに投下した爆弾は200万トン,ラオスとカンボジアにも120万トンという桁違いの量でした。
B52とその爆弾層 ジャンボを見慣れているせいか、思ったより小型でした(ソウルの戦争博物館で撮影)
枯れ葉剤の被害
さらに、ホーチミンルートやベトコンが潜むジャングルを焼き払うためにナパーム弾が使用されましたが、湿地で効果が低かったため、枯れ葉剤の大量散布に切り替えました。
その枯れ葉剤には、1gで1万人を殺すという猛毒のダイオキシンが含まれており、ダイオキシン換算で170kg,単純計算で17億人を殺せる量がジャングル等に散布されました。
ダオキシンは催奇性も強かったため、ベトナムには多くの奇形児が生まれました。
ベトちゃんドクちゃんが有名ですが、彼らはまだ医療に恵まれた方で、多くは短命に終わるか、ベトちゃんドクちゃんよりもっと悲惨な姿のまま人生を送っています。
悲惨な南ベトナム
住民の済む村の地下トンネルなどにベトコンが潜んでいることが多かったため、疑心暗鬼になった米軍側が、確たる証拠が無いにも関わらず村を焼き討ちし、非戦闘員である住民を拷問,虐殺する例が多く発生しました。
特に、米軍に次ぐ大量の派兵(のべ30万人)をした韓国軍による虐殺やレイプ行為は有名で、その混血児はライダイハンと呼ばれ、差別を受けています。
虐殺事犯の大半に韓国軍が関与しているという説もあります。
ちなみに、ベトナムでは言うことをきかない子供を「いい子にしないと韓国人が来るよ!」と脅すそうです。
さらに悲惨なのは、枯れ葉剤の散布や村の殲滅が行われたのが南ベトナムだということです。
敵である北ベトナムではなく、自分の陣営に南ベトナム領土に攻撃が加えられたのです。
なぜか?
それは、前述のホーチミンルートが関係しています。
ホーチミンルートとは?
ベトナムは縦に細長い地形で南北に分断されたため、ほぼ真ん中の北緯17度付近が軍事境界線となり、北ベトナムと南ベトナムが対峙しました。
ベトナムの東側は今回中国との衝突が発生している南シナ海ですが、西側はラオスやカンボジアと地続きです。
北ベトナムは、南ベトナム内の反政府ゲリラへの支援のために、ラオスやカンボジアの山間部やジャングルを通って南ベトナム西側へ至る補給路を確保します。
北ベトナムの指導者の名前を取り、ホーチミンルートと呼ばれました。
大勢のベトコンがホーチミンルートを通って南ベトナムに侵入し、村やジャングルに潜伏してゲリラ攻撃を繰り返しました。
マングローブジャングルの多くは、南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン)より南に位置しています。
ベトコンはサイゴンの南側にまで入り込んでいたのです。
戦闘の多くは南ベトナム国内で
ベトナム戦争映画で描かれている戦闘のほとんどが、北との境界線近くではなく南ベトナム国内でのものです。
オリバー・ストーン監督のベトナム3部作の一つ「天と地」では、昼はベトコン狩りのアメリカ軍に小突かれ、夜はベトコンに蹂躙される悲惨な村の状況を描いています。
アメリカ軍のブラックジョークに「逃げるやつはベトコンだから撃て。逃げないやつは良く訓練されたベトコンだから撃て」というのがありますが、そのような状況に手を焼いたアメリカ軍側は、南ベトナム国内への枯れ葉剤の大量散布や村々の殲滅を行いました。
アメリカ軍撤退へ
この戦争は、テレビで流れた最初の戦争です。
第二次世界大戦も、新聞や雑誌の写真,映画館でニュース映像などが流れましたが、ベトナム戦争はテレビが普及した後の初めての戦争でした。
それらで流された悲惨な映像で関心が集まったため、さらに多くの報道機関やフリーのジャーナリストが集まり、全世界に発信されました。
そのため、アメリカ国内だけではなく世界中でアメリカに対する反戦運動が高まり、さらに味方へも攻撃するアメリカ軍は、南ベトナム国民の支持を失っていきます。
1969年に就任したニクソン大統領は、段階的に兵力を引き上げ始めます。
そして1973年に、停戦のパリ和平協定が交わされ、ニクソン大統領はベトナム戦争の集結を宣言し、残っていたアメリカ軍が全面撤退します。
南北統一
この停戦でも、ベトナムには平和は訪れませんでした。
アメリカ軍の撤退で圧倒的優位な軍事力になった北ベトナムは、南ベトナムへの野心を捨てておらず、停戦協定を破って南ベトナムを攻撃します。
当初は、アメリカの再介入を警戒し小規模なものでしたが、徐々に攻勢を強め南ベトナムに侵攻していきます。
一方アメリカは、スキャンダル(ウォーターゲート事件)によるニクソンの退陣や、アポロ計画の膨大な出費、オイルショックによる景気後退などの対応に追われ、ベトナムへの関心を失っていました。
北ベトナムは、アメリカの再介入が無いことを確信し、1975年3月に南ベトナムへの本格的な侵攻を開始します。
軍備も士気も失っていた南ベトナム軍を蹴散らし、同年4月30日にはサイゴンが陥落して南ベトナム政府は崩壊しました。
左:1975年4月30日 サイゴンの大統領官邸の門扉を破る北ベトナム軍の戦車
右:現在は統一会堂と呼ばれて観光コースになっており、その屋上から撮った門扉
どさくさまぎれに中国が西沙諸島を占領
南ベトナム軍が弱体化したこの時期に、中国は南シナ海の西沙諸島に駐留していた南ベトナム軍を突然攻撃して撃破し、南ベトナム領の同諸島を占領しました。
中国は要塞化を進め、滑走路を建設するなどし、今回の衝突にいたる今日まで、中国が実効支配を続けています。
次記事:ベトナムの歴史・ベトナム戦争後も平和は訪れず・そしてドイモイ政策へ へ続きます
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