ラッシュ/プライドと友情(2) 1976年F1世界選手権inジャパン観戦記とその後
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レビュー
映画『ラッシュ/プライドと友情』のクライマックスシーンとなった1976年F1世界選手権inジャパン。
当時、そのレースを現地で見ていました。
レースの結末は、翌年、多くの運命を変えてしまうことに。
当時のレアな写真もアップしています。
前記事:ラッシュ/プライドと友情(1) ラウダとハントの実録映画[ネタバレ]
生で見た1976年F1世界選手権inジャパン
『ラッシュ(公式サイト)』のクライマックスの舞台となった1976年F1世界選手権inジャパン。
現地で観戦していました。
初めてみるF1マシン。
マクラーレンのマルボロカラーは、写真や映像で見るより蛍光オレンジなのに驚き、事故から脅威のカムバックをしたラウダに感動し、コスワースDFVやフェラーリやアルファロメオのフラット12,マトラのV12のエキゾーストノートを堪能しました。
予選では、指定席や自由席を勝手に行き来でき(当初の鈴鹿もそうでしたが)、規制も甘く、100Rからヘヤピンへのイン側では、ジュラルミンのカメラバッグを踏み台にしてフェンスの上からインベタで走る各マシンを間近で撮影できました。
豪雨の決勝は中止の危機!
そして迎えた決勝日。
前夜から豪雨になり、スタート時刻の13:30になっても降りやみません。
現在の富士スピードウェイよりはるかに水はけが悪く、コースのあちこちに水たまりができ、霧も出て、スタートはディレイされます。
高額なチケット代と旅費を使って、ようやく観に来た日本初のF1GP。
中止になってはたまりません。
雨の中、雨具を着て、びしょ濡れの土手に座り、ジリジリしながら待ちます。
主催者側としても中止は避けたいに違いなく、17時の日没から逆算し、ギリギリの15時にようやくというか、無理矢理スタートしました。
ラウダがいない?!
そして早々にラウダがリタイヤ。
しかし、大型ビジョンも無く、場内アナウンスも途切れ途切れにしか聞こえず、肝心のコースもウォータースクリーン状態でよく見えない状況では「ラウダがリタイヤしたかも?」という程度しか分からず、リタイヤ理由は翌日のスポーツ新聞で知りました。
ゴールが近くなるとかなり暗くなり、テレビ映像は実際よりもさらに暗かったらしく、中継を観ていた友人によると、(真っ黒な)JPSロータスなどは闇夜のカラス状態で、ほとんど見えなかったとのこと。
そんな夕闇の中、4位以上でチャンピオン獲得のハントがトップを独走しチャンピオン確定と思えましたが、雨が上がった路面でレインタイヤが摩耗しズルズルと後退。
ピットインで、5位に落ちます。
それから激しい追い上げを見せ、場内は大興奮。
劇的な逆転劇を目の前で見ることができました。
冒頭の写真は、このレースと翌年の日本GPのオートスポーツ特集号です。
本棚を探したら出てきました。
かなり傷んでますが。
なお2月16日迄、オートスポーツウェブで、この写真右側の1976年F1世界選手権inジャパン特集号全ページを無料公開中です。
そして、1977年のラウダと日本GPの大惨事
ラウダが自分の判断でリタイヤしたことに、ドライバーはマシンのパーツ程度としか思っていなかった(という説が有る)エンツォ・フェラーリは激怒し、2人の関係は破綻します。
翌年の1977年にチャンピオンを獲得したラウダは、カナダと日本の2戦を残してさっさとチームを離脱。
替わりに起用されたジル・ヴィルヌーヴは、日本GP決勝の1コーナーでロニー・ピーターソンのティレル6輪車と接触。
リヤタイヤに乗り上げて宙を舞い観客に飛び込み、観客と警備員2名死亡という日本のモータースポーツ史上最悪とも言っていい惨事になります。
観客は1コーナーの立入禁止区域に金網フェンスを破って侵入しており、場内アナウンスで退去を呼びかけるのを、ヘヤピンで観戦していた私も聞きました。
観客は一旦退去したものの、レース開始後に再度数百人が侵入し、レースはそのまま続行。
そこにヴィルヌーヴのマシンが飛び込みました。
F1とモータースポーツを責め立てるマスコミ
ヴィルヌーヴは6輪車のコーナリングの挙動に慣れておらず、ラインを見誤ったという説が有りますが、いずれにしてもレーシングインシデントであり、ヴィルヌーヴやF1側に観客死亡の責任はありません。
ストレートエンドのエスケープゾーンに侵入した観客を退去させずにレースを続行した、主催者の責任です。
しかし、翌日以降の新聞やテレビは、この事故を大きくセンセーショナルに取り上げ「レース≒暴走族≒危険」といった論調で責め立てました。
ただでさえモータースポーツの理解が少ない中(現在もそうですけどね)、F1は害悪のような扱いになっていきました。
その世論に押されるようにと言うより、前年の赤字でスポニチが撤退したため、いわば仕方なく引き継いだJAFは、世論に乗っかるカタチで翌年以降の開催契約を解除し、1987年の鈴鹿まで日本はF1空白期間となります。
歴史のif
もし1976年の富士で豪雨にならなかったら、ラウダはリタイヤせず、チャンピオンを獲得し、エンツォとの確執も生じず、翌年に2戦を残してチームを離脱することも無く、日本GPでもラウダが走り、事故は起きず、富士での日本GPは続行されていたでしょう。
さらに、ラウダが去る前にヴィルヌーヴは契約していましたから翌年からフェラーリに乗った可能性が高いですが、ラウダも残留し、翌年以降のドライバーラインナップが変わったと思います。
76年のラウダのリタイヤは、バタフライ・エフェクトのように、多くの運命を変えたと思います。
その意味でも『ラッシュ』のリタイヤシーンは、考え深いものでした。
ちなみに富士スピードウェイは、後年、トヨタが買収して改修し、2007年に開催された日本GPでも悪天候で大混乱したことは、記憶に新しいところです。
今後、富士スピードウェイでF1が開催される可能性は無いでしょうが、中止や延期の影響が大きい国際レースを開催するには不向きな立地だと言えるでしょう。
1977年の写真です
1976年の写真は見つからず、1977年日本GPの写真を数枚だけ見つかりました。
リバーサル(スライド用)フィルムをデジカメで複写したので、画質が悪くなっています。
左上から順に
1:ピットのマクラーレンM26。右端にハントが見えます。タイヤの横にツールボックスが見えますが、現在のカートのピットの方がゴージャスですよね
2:ラウダのカーナンバー11の312T2に乗る「新人」のジル・ヴィルニューヴ。予選は後ろから4番目に沈みます。ヘルメットはまだ「Labatt」ではありません。ボディ下部に「コーンズ」のステッカーも見えます。
3:ヴィルニューヴが決勝の1コーナーでリヤタイヤに乗り上げたティレル(当時の読みはタイレル)P34のロニー・ピーターソン
4:F1に大変革を起こした「グランドエフェクトカー」のロータス78のマリオ・アンドレッティ。翌年、さらに発展したロータス79は、アンドレッティとピーターソンで、予選で2秒離すという異次元の速さを見せ、他チームをぶっち切ることになります
5:77年の日本GPだけに出走した限定インペリアルカラーのロータス78。ドライバーはグンナー・ニルソン
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